沼田鈴子さんについて

1945年8月6日午前8時15分、人類の歴史で初めて、人の住んでいる場所に原子爆弾が 投下されました。これにより広島は一瞬のうちに廃墟となり、無数の人々が殺されまし た。8月はじめの広島人口35万人のうち、1945年の終わりまでに14万人が亡くなりま した。今日でもまだ多くの人々が後遺症に苦しみ、亡くなっています。

沼田鈴子さんはこの地獄を経験し、生き抜いた「被爆者」の一人です。当時沼田さ んは21才、逓信局で働いていました。ちょうど仕事の前の掃除をしていたとき、沼田 さんの目の前に「きれいな色」が広がりました。原爆の閃光です。どれくらいの時間が 経ったのか、気が付くと沼田さんの左足首は瓦礫にはさまれ、骨が完全に切断されてい ました。助け出された後も、ほとんど治療は受けられなかったため、沼田さんの左足は 膝まで腐ってしまいました。そのため、10日の朝、ほとんど麻酔をせずに腿から下を 切断することになりました。

沼田さんは緊急の収容所から逓信病院に移り、数度の手術のあと1947年3月にやっ と退院することができました。けれど沼田さんの人生は完全に破壊されていました。婚 約者は南方で戦死していました。たくさんの親戚や友人も亡くなりました。沼田さんの 家はバラック小屋になり、そして、広島には75年間草木が生えず、人間ももはや生き られない、と言われていたのです。

沼田さんは死にたいと考えるようになりました。そんなとき、沼田さんは逓信局の 運動場で青桐の木(写真)に出会いました。その木は、原爆の熱線に焼かれて片側の幹 がごっそり焼け落ちていました。沼田さんは我が身と重ね合わせて、なんとかわいそう なと思いました。ところがそのとき、沼田さんは焼かれていない反対側の幹から細かい 小枝が出ていることに気づきました。青桐から新しい生命が芽吹いていたのです。沼田 さんには青桐が語りかけてくるように感じました。「鈴子、片足がなくなっただけで、 何をクヨクヨしているんだ。私だって半分は死んでいるんだよ。でも、小さいながらも 芽を出し、葉を広げると、やっぱり爽快なんだよ」。

青桐は沼田さんに生きる勇気を与えました。1947年9月から、沼田さんは広島の安 田学園が設立した和洋裁学校の師範課に通い始め、その後名前を変えた母校「安田女子 高等学校」の家庭科教師となりました。また後には「安田女子短大」の講師となり、 1979年まで勤めました。

それまで沼田さんは人前で被爆の記録を語ることはありませんでした。そんな沼田 さんを変えたのは、「原爆記録映画10フィート運動」という、1981年から始められた 市民運動でした。この市民運動は、アメリカの調査団などによって撮影された、被爆直 後の広島・長崎を記録しているフィルムを、市民が10フィート分の3000円を出し合っ てアメリカから買い取ろう、という運動でした。その結果日本にやってきたフィルムの 中に、当時の沼田さんが写っていたのです。沼田さんはいろいろな人に励まされ、この フィルムを公開することに同意しました。できあがった記録映画『人間をかえせ』は当 時の反核運動の高まりの中、世界中を駆けめぐり、沼田さんもそのフィルムの上映と合 わせて、被爆の証言をするために各国を訪れました。

現在、沼田さんは日本のみならず様々な国の学生を相手に、被爆の体験を語り続け ています。「平和の種をすべての国に蒔くために」そうするのです。

沼田さんは、反核・平和運動にも積極的に参加しています。その取り組みの中で、 毎年沖縄を訪れ(沖縄は無意味な「最後の反抗」で多数の生徒が犠牲になったところで す)、また、日本が蹂躙したアジアの国々、たとえば多数の被爆者が住む韓国、日本軍 の残虐行為に苦しめられた中国大陸やマレーシアなどを訪れ、日本の侵略行為を思い起 こし、謝罪しています。

沼田さんのこれまで歩んでこられた道は三冊の本(そのうち一冊は英語に訳されて います)と一冊の漫画によって知ることができます。原爆投下後50年の1995年にはド イツを訪れ、その様子は"ホイテ-ジャーナル"(1995年8月5日, ZDFの報道番組)で報道 されました。

*広岩近広著『青桐の下で−「ヒロシマの語り部」沼田鈴子ものがたり』(明石書 店1993年)を参考にしました。